shinkato vs. the world

日記とかを不定期に書きます。

『ルック・オブ・サイレンス』

2015/7/21(Mon)@109シネマズ川崎

<スタッフ>

監督:ジョシュア・オッペンハイマー
製作総指揮:エロール・モリス 、 ヴェルナー・ヘルツォーク 、 アンドレ・シンガー
製作:ジョシュア・オッペンハイマー
撮影:ラース・スクリー

映画『ルック・オブ・サイレンス』公式サイト

 予告編。

★★★★★★★★★★(10点)

 

「大量虐殺」という言葉をウィキペディアで引いてみると‥

こんなにたくさん起きている。しかも過去の話ではなく、近年も。現在の日本で暮らしている私たちが、それについて真剣に考えることはそこそこ想像力が必要かもしれない。しかし、彼らは如何にして虐殺の当事者となってしまったのか、その心理メカニズムを目の当たりにした時、「戦争」「虐殺」は私たちとは無縁であると言い 切れるだろうか?・・・という目を背けたくなるような強烈なテーマを投げかけてくるドキュメンタリーがジョシュア・オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』の2作だ。

インドネシアで起きた「9月30日事件」

1965年9月30日夜半にインドネシアで突如発生した、大統領親衛隊による7人の陸軍将軍襲撃事件(うち6人が死亡、通称「9・30事件」)に端を発して、その後長期に渡って虐殺事件が展開された。9・30事件そのものの真相は未だ謎に包まれた部分が多いが、スハルト少将ら陸軍首脳部は事件後に「背後で共産党がしかけた政府転覆事件であった」と主張。その直後から各地でまったく無秩序に、共産党関係者や共産党と疑いをかけられた人々に対する虐殺が展開された。その犠牲者は少なくても50万人、一説によれば 100万~200万人と言われている。

『ルック・オブ・サイレンス』撮影までの道のり

ジョシュア・オッペンハイマー監督と被害者の出会い

オッペンハイマー監督は2003年、以前から被害者たちが何度も口にしていた「ある事件について」取材をはじめる。殺人の犠牲者の名前はラムリ。未だ貧困から抜け出すことが出来ない被害者たちからラムリの家族を紹介してもらったオッペンハイマー。家族の中には虐殺事件後に生まれたラムリの弟のアディがいた。彼が後に『ルック・オブ・サイレンス』の主役となる。アディとオッペンハイマーは出会ってから間もなく親密な仲となった。

ルック・オブ・サイレンスの写真3

アディと母親。母親は認知症で寝たきりの夫の介護をしながら生活している。

 

アディに限らず、事件の被害者達はオッペンハイマーに協力的だった。彼らにとってオッペンハイマーは希望だったに違いない。しかし、取材を開始して間もなく、軍が撮影の情報を知り、事件被害者への脅迫を行い、撮影は中断を余儀なくされた。被害者たちにとってこの事件は現在進行形であることをオッペンハイマーは目の当たりにした。

この時、アディをはじめとする犠牲者たちはオッペンハイマーに「諦めて帰る前に、加害者を撮影して欲しい。彼らはきっと私たちの家族をどのように殺したか喜んで語る筈だから‥」と、提案した。その後、オッペンハイマーが撮影した映像を観た犠牲者たちは「君はおそろしく重要なことをしている。加害者の撮影を続けてほしい。これを観たすべての人々が、殺人者たちが作り上げた政権がどれだけ腐敗しているかに気づいてくれるはずだから‥」こうして『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』の全貌が少しずつ現れてきたのだ。

アクト・オブ・キリング』の衝撃

アクト・オブ・キリング』は事件の当事者(加害者側)たちが当時の様子を「演じて」見せるという刺激的な内容だった。「被害者」と「加害者」それぞれににスポットを当てるドキュメンタリー作品は数多くあれど、こんなトンデモ設定な撮影がなぜ実現できたのか?答えは明白だ。インドネシアの社会が現在に至るまで彼らを「許して」いる、いや「正しい」としているからだ。当時行われた虐殺行為が「正義のためだった」という国家的な認識を持っている為、彼らは未だ権力側にいる。そして、被害者側の遺族たちは現在もまともな職に就けず、貧困に喘ぎ、今も恐怖に怯えた生活を強いられているのだ。 

「アクト・オブ・キリング」の画像検索結果

アクト・オブ・キリング』のワンシーン。加害者達がオッペンハイマーに説明しながら当時の虐殺を「演じて」いる。

 

カメラに向かって当時の殺害の様子を身ぶり手ぶり意気揚々と説明する加害者達。極めて不気味で異様な光景が次々とカメラに映し出される。それだけで映像を観ている私たちの感覚は大きく揺さぶられるのだが、更にこの作品にはドキュメンタリーにして劇映画さながら‥いや、それ以上の「クライマックス」が用意されている。是非皆様自身の目でそれを確認していただきたいが、簡単に言ってしまうと、主人公のアンワル(この人も加害者側です)が当時を振り返っているうちにふと我に返ったかのように自身が行った残虐行為と「向き合って」しまう。それによってアンワルは…

私はあのシーンを作品の中の「唯一のわずかな希望」と捉えていた。「この人も人間なんだ…」っていう。しかし、後述するが『ルック・オブ・サイレンス』を観終えた今、その捉え方は極めて楽観的であることに気付いてしまった。

 

アディの思い

オッペンハイマーが撮影した加害者達の証言(+演技)映像を何年も見続けたアディは、悲しみや怒りが入り混じった感情をひたすらのみ込む。一方で、彼の子供たちは学校で「虐殺や差別は全て被害者の自業自得である」と教え込まれる。息子を失った過去について沈黙を守り続けるアディ(そしてラムリ)の母親は「蒸し返して欲しくない」とアディの行動に対しては否定的だ。彼女は今も権力側に怯えながら暮らしているのだ。

数々の思いが重なり、アディはついに、オッペンハイマーに撮影の再開を懇願する。

呼応するオッペンハイマーの作家魂

アディは「直接私が会って話をしたい。そして罪を認めてもらいたい」オッペンハイマーに提案した。 この行為がどれだけ危険なものあるか。その提案を聞いた時、オッペンハイマーは猛反対したそうだ。そんなことをしたらアディ自身はもちろん、アディの家族の身に何があってもおかしくない。しかし、アディの強い思いを感じたオッペンハイマーは腹を括り、撮影成功の糸口を探る。今度は2003年の時のようにとん挫させるわけにはいかない。

力のある加害者に会うときはアディとオッペンハイマー以外は最小限のスタッフだけが同行。アディは身分証明書を持参しないようにした。携帯電話から全ての連絡先を削除し、権力者が加害者やチンピラを使ってあとをつけるのを防ぐために2台の車を用意して撮影場所を後にした直後にすぐに乗り換えられるようにした。必要とあればそ の日に発てる為の航空券も用意し、アディの家族がすぐに逃げられるよう、遠くに隠れ家さえ、準備していた。

命を守るための準備は出来ることは全てやる。あとは「いつ」やるかだ。
以下は撮影後のオッペンハイマーのインタビューの言葉。

「アディが会いたがっていた人物は皆、その地方では力のある処刑者や指揮官でした。しかし、その中に『アクト~』に出てきた人ほど地位のある人はいませんでした。そして私は彼らと協力して映画を作ったことで有名だったのです。そこで私は考えました。『アクト』はすでに完成し、しかしまだ公開されていない。であるならば、アディが会いたがっている人たちも、私たちに暴漢を差し向ける前に、2度や3度は躊躇するのではないか。なぜなら私たちに危害を加えたら『アクト』に出ている指揮官たちを怒らせてしまうかもしれないからです。」

『アクト~』が虐殺を肯定するような作品ではないのは観た人なら一目瞭然。公開してしまったら出演した権力者たちにそれがばれてしまう。「撮影終了~公開前」この時点で撮影に協力した加害者たちはオッペンハイマーに対してある程度の「信頼」を置いていたわけだ。「やるなら今しかない」まさに針の穴を通すかのようなタイミングで『ルック・オブ・サイレンス』の撮影は行われたのだ!


アクト・オブ・キリング』を凌ぐ『ルック・オブ・サイレンス』

※ここからネタバレかもしれません(ただ、読んでも読まなくても作品のインパクトは変わらないと断言できます)

眼鏡技師として加害者宅を訪問するアディ。「右と左どちらが見やすいですか?」「(レンズを取り替えて)これはどうですか?」それは紛れも無く「眼鏡技師」と「客」のやりとりなわけだが、その何気ない会話の中にアディは少しずつ確信を突いた言葉を投げかけていく。そして「私の兄はあなた達に殺された」という言葉。変わらずに流れていく風景の中に、二人の関係性が決定的に変わる瞬間が映る。しかも一人だけではない。アディは兄の殺害に関わった人物達を次々に訪ね、同様のアプローチをするのだ。
これは『アクト~』の最後の最後で偶然生まれたクライマックスを『ルック~』では、監督とアディが確信犯的に何度もその極限状態をに作り出そうとしていると言える(ここでいう「確信犯的」というのは「作りとしての面白さ」ではなく「アディの思い」であることは間違いないが、結果的にアディの思いから生まれたこのアプローチは「映画としての面白さ」という意味でも抜群に機能した)。

ルック・オブ・サイレンスの写真1

被害者と加害者が静寂の中対峙する。

 

アディの問いを受けた彼らには「指示に従っただけなんだ」「俺は見ていただけだ」「忘れて仲良くやろう」「私達のことを家族と思って欲しい」等、罪を認める発言は一切無い。「彼らは後悔しているはず。罪を認めてもらいたい」そんな思いで撮影に臨んだアディにとってそれは絶望的に平行線な回答だ。加害者達は自身(あるいは身内)が行ったことを正面から受け取る事ができない「洗脳状態」にあると言える。当時は権力者に「共産主義者=悪」という図式を徹底的に洗脳されたのであろうが、現在は自分で自分を洗脳しているように見える。アディと加害者はすれ違い続ける。「加害者」「被害者」の溝を埋めることは100%できないことが映像の中で次々に「立証」されていくのだ。

話が進んでいくにつれ、アディの「沈黙」と共に生まれる絶望の矛先は必ずしもアディや被害者だけに向かっているわけではない、と気づいた。アディの「私の兄はあなた達に殺された」という言葉を受けた加害者達は総じて、はっきりと動揺する。それはアディの言葉が、加害者「個人」に問いかけた言葉であるからだろう。インドネシア社会の回答にべったりすがって、言ってみれば自身をだまして生き続けてきた加害者たちは、アディに今まで目を背け続けてきた自身の「良心」や「倫理観」を突かれたのだ。そして「指示に従っただけだ」という責任逃れの言葉・・・。これらのリアクションは、私達の日常にも溢れかえっているものと違いがあるだろうか?考える必要なく、無いだろう。つまり彼らは悪魔に魂を売った特別な存在なのではない。私たちと同じ普通の人間であるということが浮き彫りにされていくのだ。

「こいつも人間なんだ・・・」これは『アクト~』のクライマックスに重ね合わすことができるが、『アクト~』のそれを見た時、冒頭に書いた通り、私は希望的な意味で「悪魔ではなく、こいつも人間なんだ」という解釈をした。映っているものが強烈だったことによる「非現実感」によって、観ている私自身は傍観者になっていたことが原因かも知れない。しかし、『ルック~』は私達を傍観者にすることを許してはくれない。加害者達の証言を見た時「こいつも人間なんだ‥」その先に「・・・つまり俺達もこうなってしまう可能性が・・・」という風に、より私達自身に迫る危機的な実感が生まれる。それはその感情が生まれるキッカケ(アディの問いかけ)がいくつもあることと、そのシーンに一緒に映るアディの「沈黙」に起因するものだろう。『ルック~』の静かな絶望世界に私達もドンドン引きこまれていくのだ。つまり、やはりこの作品の中には「絶望」しかない。


アディとオッペンハイマーは「完成」させた

アクト・オブ・キリング』は我々が恐怖と嘘の上に日常を築き上げるとどうなるかを暴く作品

『ルック・オブ・サイレンス』はそのような日常において被害者側で暮らすとはどういうことなのかを探求する作品

-ジョシュア・オッペンハンマー-

絶望を容赦なく撮りきったこの作品が、命がけで撮影され、私たちに届いたということ。それこそが唯一の希望になり得る。「こうならない為に私たちはどうすれば良いのか?」「権力側の原動力は何か?」「責任のがれをしている人たちを辿っていった先には何があるのか?」等、『アクト~』『ルック~』この2作を観てしまったら、考えずにはいられない。例えば日本の現状を考えた時、なぜ民意と政治にこんなに隔たりがあるのか?この状態は何を意味するのか?そんな身近な疑問だって、この作品と直接的につながってくるのだ。

 

 

<参考>

■劇場プログラム

 大変中身が濃いです。プロダクション・ノートやジョシュア・オッペンハイマー監督、想田和弘監督、町山智弘さんの寄稿等、たくさん参考にさせていただきました。

 

■「9・30世界を震撼させた日」

 

倉沢愛子インドネシアの9・30事件と住民虐殺」

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-20020101-0081.pdf?file_id=87488

インドネシア研究の第一人者である倉沢愛子さんは劇場パンフレットにも寄稿してます 

 

宇多丸が映画『アクト・オブ・キリング』を語る - YouTube

町山智浩が映画『アクト・オブ・キリング』を語る - YouTube

町山智浩が映画『ルック・オブ・サイレンス』を語る - YouTube